昨日は文学フリマ東京42に出店していました。足を運んでくださった皆様、ありがとうございました。
今回はまあまあの数の本が旅立った。本を渡していると、自分の書いた文章が他者(自分と同じように意思思考を持っているであろう人間)に読まれるということの大変さを改めて突きつけられる。言葉は無意識に人を傷つけるし、無意識に人を救うこともある。特に私は、口語で前者をよくやる。言った後に「今のはだめだった」と気がつく。わかっているのにさ。感情が言葉よりも先に出てしまうとき。いつもそうだ。
かわって文章は何度でも書き直せる。私が、創作が好きでそれを拠り所に生きているのは「修正がきく」からだと思う。創作の中では私が私の理想の中で生きられる。何度だって終わらせることができる。小説も映画も音楽も、完成形はぽっと出た言葉とは違う。私は自分の人生でそれをやりたい。
文フリ終了後に別の出店者さんと打ち上げをした。彼が「noteの日記読んだ(私はnoteで日記を書いています)」と言ったことに対し「げっ」と思った。小説とか文章自体は小さい頃から書いていたけれど、私が日記(エッセイ?)を書くきっかけになったのは彼の文章で、必然的に文体が似る部分がある。本人もたぶん気がついている。いや、普通に恥ずかしいですよ。
この出店者さんとは好きな事柄や思考がかなり近いと、話していて感じる。これは勝手な想像だけれど、性格の悪さが同じところにあるなと思う。悪いというか、自己解釈や他者からの視線に対する耐性、許容度など、感受性の部分に当たるのかもしれない。そもそも相手が大人で私に合わせてくれているだけかもしれない。うん、そんな気がしてきたな。そうかも。
パートナー(あ、私結婚したんですよ)とは、他者との関わりで重んじる部分も自分を安定させるための方法も異なっている。性格の黒い部分の出力も違うように感じる。あ、そうか出力なのか。出力の問題なのか。なるほどね〜。書きながら納得してしまった。どこまで「好き」を表に出すのか、どこまで「嫌い」を許容するのか、どこまで「どうでもいい」と線引きするのか、そういった出力を、熱量を、本当は全部、たったひとつの人生に向けたかった。